横溝正史シソーラス(パイロット版) - 温故知新編 -
| 3-05 | ○平櫛田中の揮毫「夢」 |
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二〇〇九年二月のこと。 ある蕎麦屋の壁に掛かっていた色紙に書かれていた格 言（？）を読み、頭をガツンとやられた思い出がある。 四十、五十は鼻たれ小僧 人生の本番は六十から 七十にしてお迎えあるときは、留守だといえ 八十にしてお迎えあるときは、まだ早いといえ 九十にしてお迎えあるときは、そう急がずともよいと いえ 百にしてお迎えあるときは、時期を見てこちらから行 くといえ どなたの作か不明だが、これを読んだ刹那、筆者の脳 裏に、ある揮毫がフラッシュバックしてきた。 それは、彫刻家・平櫛田中の一文字「夢」である。 横溝正史関連の文献調査していた折、横溝ブーム当時 の雑誌グラビアに、横溝正史の書斎の写真をいくつも見 つけたのだが、書斎の掛け軸に書かれていたのが、「夢」 という書であった。この「夢」を揮毫したのが、百歳を 越えてなお創作を続けた彫刻家・平櫛田中であったこと を、横溝正史本人が語っている。 「朝日新聞夕刊」昭和五十一年一月十六日付の文化欄 「クリスティと私晩年の創作力に改めて脱帽」の中で、 こう記している。 私の書斎には「夢」という一字を書いた軸が掛かっ ている。九十七翁中書とあるのは、即ち木彫の平櫛田 中先生九十七歳のときのご揮毫である。平櫛田中先生 の事蹟は本紙の元日の「ひと」の欄で紹介されたから 多くのひとが知っていられるだろうが、先生はたしか 百三歳。その先生が百歳になられたとき、むこう三十 年間のクス、ケヤキ等木彫に使用する原木を買い込ま れたと当時ひとづてに聞いている。 そこで去年の正月私はひそかにこういう戯れ唄を作 った。 田中先生には及びもないが、せめてなりたやクリス ティ。 私は今後何年生きるかしらないが、クリスティに倣 って、年一作長編を書いていきたいと決心したのであ る。 「クリスティと私」は同年一月十三日の朝に書かれた もので、この日、横溝正史は小林信彦との対談「クリス ティーの死と英米の作家たち」（角川書店『横溝正史読 本』対談第四部）でも、次のように語っている。 それから、それもきょう書いておいたけれども、う ちに平櫛田中さんの書があるの、「夢」という字です わ。九十七歳のときの字ですよ。ことし百三か四でし ょう。百歳になられたときに、向こう三十年間のケヤ キやクスを買い集められたそうですよ。それでぼくは こう考えた。去年の正月に。「田中さんには及びもな いが、せめてなりたやクリスティー」（笑）クリステ ィーの向こうを張るわけじゃないけどさ、年に一作書 いてみたいと思った、長編を。その矢先だから、クリ スティーの死は大ショックですわ。 横溝正史自身が、一九七五年正月にこの唄を詠んだと 語っている。 また、過去の文献を辿っていくと、安間隆次「インタ ビュー 探偵小説七十年をめざして せめてなりたやク リスティさんに」（「別冊・幻影城 横溝正史 本陣殺人 事件・獄門島」昭和五十年九月）で、平櫛田中に言及し た記述を見つけることができた。 ――平櫛翁は、向こう五十年間の材料を買いこんだっ ていうでしょう。だからね、田中さんには及びもない が、せめてなりたやクリスティさんに。 「文藝春秋」一九九六年三月号のグラビア「作家の書 斎 第六回 横溝正史」では、「夢」の掛け軸の前に孝子 夫人が座る書斎写真に、「木彫り彫刻家・平櫛田中さん の書『夢』が大好きだったという。「主人は夢を見続け ようとしたんだと思います」（孝子夫人）」という文章 が添えられており、平櫛田中の揮毫「夢」は、横溝正史 の宝物だったことを、窺い知ることができる。 文頭に掲げた格言によれば、筆者はまだまだ駆け出し の「鼻たれ小僧」である。 格言から筆者の脳裏に呼び覚まされた、平櫛田中の揮 毫「夢」に思いを馳せながら、自分の「夢」である、横 溝正史全作品読破と横溝正史研究のウェブサイト「横溝 正史シソーラス」実現に向け、構想を練り始めようと思 った次第である。 |
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