横溝正史シソーラス(パイロット版) - 温故知新編 -
| 1-02 | ○横溝正史はセザンヌの絵画を観たのか |
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フランスの画家ポール･セザンヌの絵画について語ら れた、横溝正史作品があることをご存じだろうか。とは 言っても、それは中絶作品であり、のちに改稿された長 編作品では、セザンヌの絵画は全くもって触れられてい ないので、ご存じない方も多いかもしれない。 セザンヌの絵画「首吊りの家、オーヴェール＝シュル ＝オワーズ」が登場する作品は、「病院横町の首縊りの 家」で、雑誌「宝石」昭和二十九年七月号に第一回目が 掲載された。 本来は全三回で完結となる予定だったが、同八月号に 「「病院横町の首縊りの家」中止について」が掲載され て未完に終わった、いわく付きの作品と言ってもよいだ ろう。 誠に汗顔のいたりながら、この小説、早くも呼吸ぎ れがしてつづかなくなりました。読者諸君にも編集者 諸子にも、このうえもなく申訳ないしだいですが、一 応打切らさせていただきます。なるべくはやくよき想 いを新たにして書かせていただきます。右おわび申し あげます。 「首吊りの家、オーヴェール＝シュル＝オワーズ」は 一八七二年に制作され、現在はオルセー美術館蔵に所蔵 されている（二〇二二年四月現在）。 セザンヌの絵画は何度も日本で公開されており、筆者 が訪れた美術展だけでも、この絵は近年少なくとも三回 は来日していることが分かった。 ・一九九九年「セザンヌ展」（九月十一日〜十二月十九 日、横浜美術館） ・二〇一二年「セザンヌ展」（三月二十八日〜六月十一 日、国立新美術館） ・二〇一四年「オルセー美術館展」（七月九日〜十月二 十日、国立新美術館） 「病院横町の首縊りの家」第一回掲載で、セザンヌの 絵画どのように描かれているかというと、いきなり冒頭 から次のように記されている。 「これが病院横町の首縊りの家なんですがね」 と、金田一耕助が手文庫から取出してみせたのは、 ローライ･コードで撮影して、引伸ばしたらしい、一 辺が十センチばかりの正方形の写真である。（略） 「なんのこと？ 病院横町の首縊りの家というの は？」 私はその称びかたの異常さに、たちまち好奇心に誘 われた。 「いやあ、セザンヌの絵に「オーヴェールの首縊り の家」と、いうのがあるでしょう。それをまねて、私 がかりに、病院横町の首縊りの家と名づけてみたん です。どうです。ちょっとよく撮れているでしょう」 （略） なるほど、金田一耕助がその家をセザンヌをまねて、 「病院横町の首縊りの家」と命名したのもむりではな いかもしれぬ。写真にとられた家の構図が、セザンヌ の「オーヴェールの首縊りの家」にちょっと似ている。 写真の下部は左から右へ傾いた坂道である。その坂 道は写真の中央で、写真のおくにむかって傾斜してい るらしい。そして、その坂の下の写真の向かって左側 には、空襲でもうけたのか、なかばこわれた土蔵が見 え、土蔵のおくには、日本建ての平屋があるが、これ も半分屋根がこわれている。庭の樹木も焼けただれて、 黒くこげた枯枝に、烏が一羽、お誂えむきにとまって いる。 十センチ四方の正方形の写真の構図の説明を、セザン ヌの「首吊りの家、オーヴェール＝シュル＝オワーズ」 を見ながら読むと、なるほど似ている構図だと感じずに はおられない。このセザンヌの絵画から、金田一耕助が 写真の家を「病院横町の首縊りの家」と名づけたのも、 さもありなんといったところだろうか（ただし、セザン ヌの絵画に関する知識を披瀝したのは、「病院横町の首 縊りの家」だけのようだが……）。 中絶作「病院横町の首縊りの家」のタイトルからおお よそ見当がつくと思うが、この作品を改稿した長編が金 田一耕助最後の事件となる「病院坂の首縊りの家」にな る。「病院坂の首縊りの家」では、残念ながら、セザン ヌの絵画に関する記述が削除されてしまった。 同作の結末だが、中絶後の「宝石」昭和二十九年十一 月号へ、岡田鯱彦と岡村雄輔による解決編競作が掲載さ れた。二人が書いた解決編は、横溝正史の序編と合わせ、 鮎川哲也・編『本格推理マガジン特集・幻の名作鯉沼 家の悲劇』（光文社文庫／一九九八年三月）に収録され ており、横溝正史による序章と二人の作家による二つの 結末を一冊で読むことができる。 現行本がなく残念だが、機会があれば横溝正史による 序篇と他作家による解決編二作を読むのも、一興かと。 文庫巻末の解説（芦辺拓）には、“病院横町”のタイト ルの元と考えられる作品について記されている。 “病院横町”なる怪しくも魅力的な名前について一 言。これはおそらく森鴎外（昨今は文豪としてより、 数知れぬ兵士を脚気で死に追いやり、明治の薬害とい われる事件の元凶として悪名を轟かせていますが）の 「病院横町の殺人犯」から採ったものでしょう。 実はこれ、ポオの「モルグ街の殺人」の翻訳で、こ の名が後年の長篇では“病院坂”となり、大病院を営 む法眼一族が生み出されていったのではないでしょう か。そういえば、一族の中で最初に紹介される法眼鉄 馬は、鴎外と同じく陸軍の軍医高官でした。 横溝正史は、どこで（または、なにで）、セザンヌの 絵画「首吊りの家、オーヴェール＝シュル＝オワーズ」 を見たのだろうか。この絵画に思い入れがあったからこ そ、作中に記したと思われるのだが。 セザンヌの「首縊りの家」というタイトルに惹かれて、 さらに森鴎外（森林太郎）が「モルグ街の殺人」のドイ ツ語版から重訳を行った「病院横町の殺人犯」というタ イトルを重ね合わせて、「病院横町の首縊りの家」とい う題名になったのかもしれない。 ちなみに、「モルグ街の殺人」の原題はThe Murders in the Rue Morgue であり、その独訳はDer Mord in der Spitalgasse である。独訳ではたしかに「病院横町」 の意味になる旨、『鴎外選集 第15巻』（岩波書店／昭和 五十五年一月）の巻末解説に記されている。 「病院横町の首縊りの家」の記述内容から、横溝正史 がセザンヌの「首吊りの家、オーヴェール＝シュル＝オ ワーズ」を見たのは間違いないと考えられるが、美術展 でこの絵を実際に見たのだろうか。それとも図録やチラ シなどで見たのだろうか。 有地京子・監修『マンガでわかるオルセー美術館の見 かた 西洋絵画がもっと愉しくなる！』（誠文堂新光社／ 二〇二年二月）によれば、絵画「首吊りの家」は、セザ ンヌの印象派時代の代表作とのこと。だから、何度も来 日しているのか。この絵画のタイトルについて、以下の 説明が記されている。 ショッキングなタイトルは、パリ郊外オーヴェール = シュル= オワーズの「首吊りの家」を描いたこと に由来しますが、実際に事件があったわけではありま せん。住人の名前「ペン･デユ」がなまり「パンデュ （首つり）」と伝わったのだそうです。 文中の「首吊りの家」とは、絵の左端に描かれている 三角屋根の家とのことである。 はたして、横溝正史は「首吊りの家」のタイトルが、 住人の名前がなまったものだったことを知っていたのだ ろうか。 作品タイトルが改稿時に、「病院横町の首縊りの家」 から「病院坂の首縊りの家」に改められているが、ポ オ原作の「病院横町の殺人犯」から採ったと考えられ る〈病院横町〉は、横溝正史宅近くの〈病院坂〉に改め られた。横溝亮一のエッセイ「父・横溝正史と世田谷」 （『横溝正史と「新青年」の作家たち』［世田谷文学館 ／一九九五五年三月］収録）によれば、改稿版「病院坂 の首縊りの家」の〈病院坂〉は、本当は〈ご料林坂〉が 正しいようである。 世田谷を舞台とした作品もないではない。晩年の大 作「病院坂の首縊りの家」の病院坂というのは、成城 の町から、多摩堤通りの方へ下っていく坂の名前であ る。「病院坂」というのは本来誤りで、「ご料林坂」 がなまったものらしい。 |
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